「初詣は神社」が常識?お寺への参拝にためらいはありませんか?

新年あけましておめでとうございます。2026年、皆様はどちらへ「初詣」に足を運ばれるご予定でしょうか。
「初詣」と聞くと、多くの方がまず地元の「神社」(氏神様)や、明治神宮、伊勢神宮といった有名な「神社」を思い浮かべるのではないでしょうか。「お正月は神様に新年のご挨拶をするもの」というイメージが、私たち日本人には広く浸透しています。
その一方で、ふとこんな疑問を持ったことはありませんか?
「テレビのニュースで見ると、千葉県の成田山新勝寺や、神奈川県の川崎大師平間寺も、日本トップクラスの初詣参拝者数を誇っている。あれは『お寺』だよね?」
「近所に大きな『お寺』があるけれど、新年のご挨拶に行ってもいいのだろうか?」
「お寺って、なんというか…お葬式やお盆、ご先祖様のお墓参りといった『弔事(ちょうじ)』のイメージが強い。新年のおめでたい『慶事(けいじ)』である初詣で行くのは、もしかして場違いで『おかしい』ことなのでは…?」
このように、「初詣=神社」というイメージと、「初詣で賑わう有名なお寺」という現実との間で、少し混乱したり、お寺への参拝にためらいを感じてしまったりする方は、決して少なくありません。
なぜ私たちは、神社の初詣は「当たり前」と感じるのに、お寺の初詣には少し「違和感」や「疑問」を覚えてしまうのでしょうか。
その背景には、日本人が生活の中で無意識に「神道(神社)」と「仏教(お寺)」の役割を使い分けてきた長い歴史と、ある時期にその関係性が大きく変わったという、日本の信仰の根幹に関わる事情があります。
この記事では、その「初詣でお寺に行くのはおかしい?」という素朴かつ本質的な疑問に、真正面からお答えします。
結論から言えば、お寺への初詣は全く「おかしく」ありません。この記事では、なぜおかしくないのか、その歴史的な理由(神様と仏様の関係)、そして神社とお寺のご利益の違いや、絶対に混同してはいけない「お寺ならではの参拝マナー」まで、詳しく解説していきます。
この記事を最後までお読みいただければ、あなたの疑問はスッキリと解消され、「お寺への初詣」が持つ深い意味を理解し、自信を持って新年の祈りを捧げられるようになるはずです。
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【結論】初詣でお寺に行くのは全く「おかしくない」!歴史的な理由とは

まず、読者の皆様が抱いている「初詣でお寺に行くのはおかしい?」という疑問に、はっきりとお答えします。
それは、全く「おかしく」ありません。それどころか、お寺への初詣(「初参り(はつまいり)」とも呼ばれます)は、神社への初詣と等しく、非常に伝統的で、古くから日本人に親しまれてきた正しい新年の習慣です。
では、なぜ「おかしくない」と言い切れるのでしょうか。その最大の理由は、日本の信仰の歴史そのものにあります。
それは、「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」という、世界でも類を見ない独特の信仰形態を日本人が育んできたからです。
「神仏習合」とは、日本古来の「神道(しんとう)」(神様)と、海外(インドや中国)から伝わってきた「仏教(ぶっきょう)」(仏様)が、対立したり排除し合ったりするのではなく、互いに影響を与え合い、融合していった歴史的な現象を指します。
仏教が日本に伝わった飛鳥時代から、明治時代に至るまでの1000年以上の長い間、日本人にとって神様と仏様は「どちらかを選ぶ」ものではなく、「どちらも等しく尊い」存在でした。
平安時代頃には、「日本の神様は、人々を救うために仏様が仮の姿(権現 - ごんげん)として日本に現れたものである」という「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」という考え方が広まります。これにより、神様と仏様は「同一の存在」として、何の違和感もなく一緒に信仰されるようになりました。
その結果、当時の日本では、神社の境内にお寺(神宮寺 - じんぐうじ)が建てられたり、逆にお寺の敷地内に神様(鎮守神 - ちんじゅがみ)を祀る神社が建てられたりするのがごく当たり前の光景でした。
現代の私たちが「初詣」と呼んでいる習慣の原型は、元々は「恵方詣り(えほうまいり)」と呼ばれ、その年の縁起の良い方角(恵方)にある神社や「お寺」に参拝するものでした。当時の人々は、参拝先が神社であろうとお寺であろうと、神様と仏様の区別を厳密につけることなく、ごく自然に両方に手を合わせ、新年の祈りを捧げていたのです。
つまり、「初詣」という文化そのものが、この神様も仏様も一緒にお参りしていた「神仏習合」の土壌から生まれてきたと言えます。
したがって、お寺に初詣に行くことは、私たちの祖先が1000年以上も続けてきた、非常に伝統的で自然な信仰の姿なのです。「おかしいかも」と感じてしまうのは、実はごく最近(明治時代以降)に生まれた感覚に過ぎません。その点については、後の章で詳しく解説します。
まずは、「お寺への初詣は、歴史的に見ても全く問題ない、立派な日本の文化である」ということを、どうぞご安心ください。
実は初詣の参拝者数日本トップクラスは「お寺」が多数

前章では、歴史的な背景から「お寺への初詣は全くおかしくない」と結論付けました。しかし、そうは言っても「本当かな?」「自分の周りでは神社の話しか聞かない」と、まだ半信半疑の方もいらっしゃるかもしれません。
その疑問を解消するために、最もわかりやすい「事実」をご紹介します。それは、毎年お正月に発表される「初詣の参拝者数ランキング」です。
このランキングを見ると、日本で最も多くの人が初詣に訪れる場所として、神社の「明治神宮」(東京都)が不動の1位であることが多いですが、そのすぐ後に続く2位、3位、あるいはトップ10の常連に、全国の有名なお寺がずらりと名を連ねているのです。
もし「お寺への初詣がおかしい」ものだとしたら、毎年何百万人もの人々が、新年のご挨拶としてお寺を選ぶという現象は説明がつきません。この事実は、現代の日本人にとっても、お寺への初詣が神社と並んでごく自然な選択肢であることの何よりの証拠といえます。
例:成田山新勝寺、川崎大師、浅草寺… なぜお寺に人が集まるのか
では、具体的にどのようなお寺が人気を集めているのでしょうか。代表的な例は以下の通りです。
- 成田山新勝寺(千葉県):不動明王(お不動様)をご本尊とする真言宗のお寺。家内安全、交通安全、開運厄除など。
- 川崎大師 平間寺(神奈川県):「厄除け弘法大師」として知られる真言宗のお寺。特に「厄除け(やくよけ)」のご利益で絶大な人気を誇ります。
- 浅草寺(東京都):聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)をご本尊とする東京最古のお寺。商売繁盛、家内安全など。
(その他にも、京都の「知恩院」や、長野の「善光寺」なども、新年の初参り(初詣)で非常に多くの参拝者で賑わいます。)
では、なぜこれらのお寺にこれほど多くの人が集まるのでしょうか。それは、「現世利益(げんぜりやく)」が非常に分かりやすいからです。
「現世利益」とは、亡くなった後のこと(来世)ではなく、「今、生きているこの世界」での具体的なお願い事(ご利益)のことです。例えば、「厄年の災いを祓いたい(厄除け)」「事故に遭わないようにしたい(交通安全)」「商売を繁盛させたい」といった、新年を迎えるにあたって私たちが切実に願うことです。
これらのお寺は、こうした「厄除け」や「商売繁盛」などの「今を生きる力」を授けてくださる仏様として、古くから庶民の篤い信仰を集めてきました。
人々は「お寺だから(弔事)」と考えるのではなく、「川崎大師は厄除けの力が強いから」「浅草の観音様はご利益があるから」という理由で、新年の一番初めの祈願の場として選んでいるのです。この事実は、初詣の本質が「神様か仏様か」という区分以上に、「どこで祈りたいか」という個人の信仰心にあることを明確に示しています。
なぜ「初詣=神社」のイメージが強い?生活に根付く役割の違い

前の章までで、歴史的に見ても(神仏習合)、また現代の参拝者数という事実(成田山や川崎大師など)から見ても、お寺への初詣は全く「おかしくない」どころか、非常に一般的であることを確認しました。
しかし、それでもなお、私たちの感覚として「お正月といえば、なんとなく神社」「初詣のメインは神社」というイメージが根強くあるのはなぜでしょうか。
読者の方が最初に抱いた「お寺はおめでたい時に行くのは場違いかも?」という疑問は、まさにこの感覚から来ています。
その答えは、見出しにもある通り、日本人が長い歴史の中で、神道(神社)と仏教(お寺)に対して、生活に根付いた「役割分担」のイメージを無意識のうちに持ってきたからです。
この「役割分担」のイメージは、決して厳密なルールではありませんが、多くの日本人の生活習慣に深く影響を与えています。
神道(神社):お宮参り、七五三など「ハレ(祝い事)」の場
まず「神社(神道)」の役割イメージです。
神道は、日本古来の自然崇拝や祖先崇拝から生まれた信仰であり、その土地の神様(氏神様)や八百万(やおよろず)の神々に、「今を生きる私たち」の人生の節目節目での感謝や祈願を捧げる場として機能してきました。
具体的に、私たちが神社に行く時を思い浮かべてみてください。
- 赤ちゃんが生まれれば「お宮参り」
- 子供が3歳・5歳・7歳になれば「七五三」
- 結婚の誓いを立てる「神前結婚式」
- 家を建てる前の「地鎮祭(じちんさい)」
- 受験シーズンの「合格祈願」
- 妊娠中の「安産祈願」
これらはすべて、人生の「ハレ」の日、すなわち「慶事(けいじ)=お祝い事」や、未来への具体的な祈願です。
「初詣」もまた、新しい年を迎えたことを「祝い」、一年の家族の健康や安全、商売繁盛などを「祈願」する行事です。そのため、「お祝い事や祈願なら、いつもの神社へ」という思考の流れが働くのは、非常に自然なことなのです。
仏教(お寺):お葬式、お盆など「先祖供養(弔事)」の場
一方で、「お寺(仏教)」の役割イメージはどうでしょうか。
仏教は、インドで生まれ、中国を経由して伝わってきた「教え」であり、その根本には「生老病死(しょうろうびょうし)」といった人生の苦しみから人々を救う、という思想があります。
日本では、仏教が伝来して以降、特に「死」や「死後の世界(浄土)」、「輪廻転生」に関する儀礼を担う役割が強くなっていきました。
現代の日本において、私たちの生活とお寺との関わりが最も深くなるのは、どのような時でしょうか。
- 身内が亡くなった時の「お葬式(葬儀)」
- 故人を偲ぶ定期的な「法事(法要)」
- 夏に迎えるご先祖様の「お盆」
- 春と秋の「お彼岸」の「お墓参り」
これらは、お祝い事である「慶事」とは対照的な、「弔事(ちょうじ)=お悔やみ事」や「先祖供養」です。多くの方にとって、菩提寺(ぼだいじ)とは「ご先祖様のお墓がある場所」として認識されています。
このように、お寺は「弔事の場所」「ご先祖様を供養する場所」という役割イメージが非常に強く生活に根付いています。だからこそ、その対極にある「新年のお祝い事(慶事)である初詣」に、「弔事のイメージが強いお寺」へ行くのは、なんだか「おかしい」のではないか?という、感覚的な違和感(ためらい)が生まれてしまうのです。
しかし、これはあくまで近代以降に定着した、非常に簡略化された「役割イメージ」に過ぎません。前章で見たように、お寺は「厄除け」や「商売繁盛」といった「慶事」のご利益(現世利益)も古くから強力に担ってきました。この「イメージのズレ」こそが、読者の皆様が抱いた「お寺はおかしい?」という疑問の正体なのです。
【歴史解説】かつて神様と仏様は一緒だった?「神仏習合」とは

前の章で、私たちは「神社=お祝い事(慶事)」「お寺=お悔やみ事(弔事)」という役割イメージを無意識に持っている、と解説しました。これが「お寺の初詣はおかしいかも?」という疑問の正体でした。
しかし、成田山新勝寺や川崎大師が「厄除け」や「交通安全」といった「現世利益(慶事)」で絶大な人気を誇っている事実も、同時に存在しています。
なぜ、お寺は「弔事」のイメージが強い一方で、「慶事」のご利益も強力に担っているのでしょうか。そして、なぜ昔の人々は、お寺への初詣に何の違和感も持たなかったのでしょうか。
そのすべての答えが、日本の信仰の歴史における最大のキーワード、「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」にあります。この歴史を知れば、お寺への初詣が「おかしい」どころか、むしろ日本の伝統的な姿であったことがよく分かります。
日本の信仰のキホン:「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」の時代
「神仏習合」とは、その名の通り、日本古来の「神道(神様)」と、大陸から伝わった「仏教(仏様)」が、互いに融合し、一体化して信仰されていった現象を指します。
仏教が日本に伝来した6世紀(飛鳥時代)から、明治時代(19世紀後半)に至るまでの実に1000年以上の長きにわたり、この「神仏習合」こそが、日本の信仰の「スタンダード」な形でした。
例えば、平安時代になると「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」という考え方が広まります。これは、「日本の神様がたは、実は人々を救うために仮の姿(権現 - ごんげん)となって現れた仏様(本地仏 - ほんじぶつ)なのだ」という思想です。例えば、「天照大神(あまてらすおおみかみ)=大日如来(だいにちにょらい)」、「八幡神(はちまんしん)=阿弥陀如来(あみだにょらい)」といった具合です。
これにより、神様と仏様は「同一の存在」として、何の矛盾もなく信仰されるようになりました。その結果、当時の日本では以下のような光景が当たり前でした。
- 神宮寺(じんぐうじ):神社の境内にお寺が建てられ、神様の御前でお坊さんが読経(どきょう)する。
- 鎮守神(ちんじゅがみ):お寺の敷地内に、その土地の神様を「お寺の守り神」として祀る神社が建てられる。
当時の人々にとって、神様も仏様も、区別することなく等しく尊い「ありがたい存在」でした。新年の祈願(初詣の原型である恵方詣りなど)も、神社・お寺の区別なく、ご利益を授けてくれる場所へごく自然に参拝していたのです。
明治時代の「神仏分離令」が「神社とお寺」を明確に分けた
この1000年以上続いた「神仏習合」という「当たり前」を、劇的に終わらせた出来事が起こります。それが、明治元年(1868年)に明治新政府によって出された「神仏分離令(しんぶつぶんりれい)」(または神仏判然令)です。
明治政府は、天皇を中心とした近代国家を作るにあたり、その権威の源泉である「神道」を国家の宗教(国家神道)として中心に据えようとしました。そのためには、それまで一体化していた「神」と「仏」を、強制的に引き離す必要があったのです。
この法令により、全国の神社からは仏像や仏具が強制的に撤去され、お寺が管理していた神社は独立させられました。場所によっては、この分離令を「仏教の排除」と過激に解釈した人々によって、お寺や仏像が破壊される「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」という悲劇的な運動も発生しました。
この「神仏分離令」こそが、私たちが今日、「神社」と「お寺」を全く別の施設として明確に区別するようになった、直接的なきっかけなのです。
そして、この分離を境に、「神社=国家神道と結びつく公的な祈りの場、お祝い事の場」、「お寺=私的な葬儀・供養の場」という、前の章で述べた現代の「役割イメージ」が、急速に形作られていきました。
結論として、私たちが感じる「お寺の初詣はおかしいかも?」という小さな違和感は、実はこの明治時代以降、つまりここ150年ほどの間に生まれた、歴史的に見れば比較的「新しい」感覚に過ぎません。1000年以上の歴史を振り返れば、お寺に新年の祈願に行くことは、日本人の信仰の伝統そのものだったのです。
ご利益に違いは?神社(神道)とお寺(仏教)それぞれの特徴

「初詣でお寺に行くのは全くおかしくない」と歴史的背景や事実からご理解いただけたかと思います。では、いざ2026年の初詣に行こうと思った時、私たちは「神社」と「お寺」を何を基準に選べばよいのでしょうか。
もちろん、地元の氏神様(神社)や、ご先祖様が眠る菩提寺(お寺)に新年のご挨拶に行くのが基本ですが、もし「今年はこれを特に祈願したい!」という具体的な目的(願い事)がある場合は、その「ご利益(ごりやく)」の傾向で選ぶというのも一つの賢い方法です。
神様(神道)と仏様(仏教)では、その成り立ちから、どのような願い事を「得意」とされているかに、一般的な傾向の違いがあります。もちろん、これは厳密なルールではなく、どちらにお参りしても真摯な祈りは届きます。あくまで参考としてご覧ください。
神社(神様)のご利益:家内安全、縁結び、商売繁盛など
神道は、日本古来の信仰であり、私たちの暮らしや共同体に密着した「現世利益(げんぜりやく)」=「今を生きる私たち」の具体的な幸せを守り、発展させてくださるご利益が中心となります。
お宮参りや七五三、安産祈願、地鎮祭など、人生の節目や生活の基盤に関わる祈願を担うことが多いのが特徴です。
- 家内安全・国家安寧:家族やコミュニティ(国)の平和と安全。
- 商売繁盛・五穀豊穣:ビジネスの成功や、食べ物に困らないこと。(例:お稲荷様など)
- 縁結び・恋愛成就・夫婦円満:人との良きご縁や家庭円満。(例:大国主大神など)
- 安産祈願・子孫繁栄:新しい命を無事に産み育てること。
- 交通安全・海上安全:日々の暮らしや移動の安全。
このように、家族や地域社会全体の「繁栄」や「安全」、「良縁」といった、日々の生活に根ざした願い事を祈願するのに適しています。
お寺(仏様)のご利益:厄除け、病気平癒、合格祈願、先祖供養など
仏教は、お釈迦様の「人々を苦しみから救う」という教えが根本にあります。そのため、ご利益としては、私たち個人が抱える具体的な「苦しみ」や「悩み」を取り除き、精神的な平安や目標達成に導くものが中心となります。
まさに、川崎大師や成田山新勝寺が「厄除け」で絶大な人気を誇るのが、この典型です。「厄年」という「災いが起きやすいとされる年」の苦しみを取り除いてほしい(=厄除け)という切実な願いに応えてくれるのが、お寺の仏様(お不動様や弘法大師など)なのです。
- 厄除け・方位除け:降りかかる災難や、悪い方角からの影響を取り除く。
- 病気平癒・無病息災:病気や怪我からの回復、健康な生活。(例:薬師如来など)
- 合格祈願・学業成就:受験や試験の突破、学問の向上。(例:文殊菩薩など)
- 心願成就:心の奥底にある切実な願いが叶うこと。(例:観音菩薩など)
- 先祖供養:ご先祖様への感謝と、その冥福を祈ること。
「今年こそは厄年を無事に乗り切りたい」「難関の試験に合格したい」「病気を治したい」といった、個人の切実な「苦しみからの救済」や「目標達成」を強く願う場合、お寺への初詣(初参り)は非常に心強い選択肢となるでしょう。
【重要】神社と混同しないで!お寺ならではの正しい参拝マナー

「お寺への初詣は歴史的にも伝統的にも全くおかしくない」とご理解いただけたところで、次に非常に重要になるのが「参拝のマナー」です。
お寺(仏教)と神社(神道)は、ルーツや信仰の対象(仏様と神様)が異なるため、当然ながら参拝の作法(マナー)も全く異なります。
この違いを知らずに、例えば「お寺」で「神社」の作法(=柏手を打つ)をしてしまうことは、仏様に対して大変失礼にあたってしまいます。せっかくの新年のご挨拶で、悪気なく失礼なことをしてしまっては元も子もありません。
「初詣=神社」というイメージが強い方ほど、無意識に神社の作法が出がちですので、ここでお寺ならではの正しい参拝マナーをしっかり確認しておきましょう。
1. 入口:「鳥居」ではなく「山門」。敷居を踏まず合掌一礼
まず入口です。
- 神社:入口のシンボルは「鳥居(とりい)」です。鳥居は神域との結界であり、くぐる前に一礼し、参道の中央(正中)を避けて歩くのがマナーです。
- お寺:入口のシンボルは立派な屋根のついた「山門(さんもん)」です。(仁王像があれば「仁王門」とも呼ばれます)。
お寺の山門をくぐる際の作法は以下の通りです。
- 山門の前で立ち止まり、本堂(ご本尊様)に向かって胸の前で静かに「合掌(がっしょう)」し、深く一礼します。
- 山門の足元に「敷居(しきい)」(横木)がある場合は、絶対に踏みつけないように、またいで入ります。敷居は「結界」そのものであり、一説には「仏様の頭」を意味するとも言われ、踏むことは大変失礼とされています。
- 帰り(山門を出る時)も同様に、本堂に向き直って合掌・一礼します。
2. お清め:「手水舎」は共通。「常香炉(お線香)」で煙を浴びる
次に、参拝前の「お清め」です。
- 手水舎(ちょうずや):
これは神社とお寺で基本的に共通の作法です。柄杓(ひしゃく)で水を汲み、左手→右手の順に清め、左手に水を受けて口をすすぎ(柄杓に直接口はつけない)、最後に柄杓の柄(え)を洗い流します。神様・仏様にお会いする前に、自身の心身を清める大切な儀式です。 - 常香炉(じょうこうろ):
手水舎の後に、お寺特有のものとして「常香炉」(大きな香炉)が置かれている場合があります。ここではお線香をあげることができます。
お線香は、仏様への「香り」のお供えであると同時に、その煙(香煙)によって自身の「穢れ(けがれ)」を清めるという意味があります。火をつけたら、息で吹き消さず、必ず手で扇いで火を消し、香炉に立てます。頭や体の悪い部分などに、その煙をそっと手で招き寄せて浴びる(=お清めする)方も多く見られます。神社にはこの習慣はありません。
3. 拝礼:最大の注意点!柏手(かしわで)は打たず、静かに「合掌」
ここが神社とお寺で最も重要な違いであり、絶対に混同してはならないポイントです。
- 神社:拝殿の前で「二拝二拍手一拝(にはい にはくしゅ いっぱい)」が基本です。鈴を鳴らし、お賽銭を入れ、2回深くお辞儀をし、「パン、パン」と2回「柏手(かしわで)」を打ちます。これは神様をお呼びし、感謝と祈りを捧げるための作法です。
- お寺:本堂(ご本尊様)の前では、絶対に「柏手(拍手)」を打ってはいけません。
柏手はあくまで神道の作法であり、仏様の前で音を立てることは失礼にあたるとされています。お寺での正しい拝礼方法は、「静かに合掌」が基本です。
- 本堂の前に進み、まず深く一礼します。
- お賽銭をそっと入れます。(神社のように「投げる」のは元々「穢れを祓う」意味があったとされますが、お寺ではお布施として静かに入れるのがより丁寧です)
- 鰐口(わにぐち・銅鑼)という大きな鈴のようなものがあれば、紐を振って静かに鳴らします。
- 胸の前で両手をぴったりと合わせ、静かに「合掌」します。
- 目を閉じ、心を込めて新年の感謝と祈願を伝えます。(「南無阿弥陀仏」や「南無大師遍照金剛」など、ご本尊様や宗派の言葉(お題目・真言)を心の中で唱えても結構です)
- 祈願が終わったら、合掌したまま、もう一度深く一礼します。
- 最後に合掌を解き、静かにその場を下がります。
この「柏手を打たずに、静かに合掌する」という点だけは、お寺への初詣で必ず守るように心がけましょう。
Q&A:お寺の初詣に関するよくある疑問

ここまで、お寺への初詣が全く「おかしくない」理由や、その歴史的背景、そして神社とは異なる参拝マナーについて詳しく解説してきました。
お寺への初詣が日本の伝統的な行いであることはご理解いただけたかと思います。最後によくある「でも、この場合はどうなの?」という、初詣の参拝先(神社とお寺)に関する素朴な疑問について、Q&A形式でスッキリとお答えします。
Q1. 神社とお寺、両方お参り(ハシゴ)してもいいの?
A. はい、全く問題ありません。むしろ、両方にお参りすることは「重ね重ねの福をいただく」として、縁起が良いことともされています。
この記事で解説してきた通り、日本は「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」の歴史が長く、神様も仏様も等しく尊い存在として信仰してきました。「神社にお参りした後にすぐお寺に行ったら、神様がヤキモチを焼く」といった話を耳にすることがありますが、これは俗説(迷信)です。日本の神様や仏様は、そのようなことで怒るような狭量な存在ではないと考えられています。
特に「神仏習合」の時代には、神社の境内にお寺があり、お寺の境内に神社があるのが当たり前でした。人々は一度の参拝で、ごく自然に神様と仏様の両方に手を合わせていたのです。その名残で、現在でも有名な神社(例:鶴岡八幡宮)の境内に弁天様(仏教由来)が祀られていたり、お寺(例:浅草寺)の境内に神社(浅草神社)が隣接していたりするのです。
もし、お参りの「順序」として、より丁寧な方法があるとすれば、まずは地元の氏神様(神社)に「旧年中はお守りいただきありがとうございました」という「感謝」のご挨拶を先に済ませ、その後に、ご利益で選びたい有名なお寺(例えば厄除けの川崎大師など)や神社へ「新年の祈願」に行く、という流れが理想的とされることはあります。
しかし、これはあくまで理想論です。ご自身の行きたい場所へ、感謝と祈りの心を込めてお参りすることが何よりも大切です。
Q2. 喪中の場合はお寺なら行ってもいい?
A. これは非常にデリケートな問題ですが、明確な答えがあります。結論から言うと、「忌中(きちゅう)」(故人が亡くなってから約50日間)であっても、「喪中(もちゅう)」(約1年間)であっても、お寺への初詣(お参り)は全く問題ありません。
この疑問の背景には、神道の「死=穢れ(けがれ)」という考え方があります。神道では、神様は清浄であることを最も大切にするため、「穢れ」の期間とされる「忌中」は、神社の鳥居をくぐることを厳しく慎むべきとされています。(※「忌明け」後の「喪中」であれば、神社への参拝も可能とする見解が一般的です)。
しかし、仏教(お寺)には、この「死=穢れ」という概念がそもそも存在しません。仏教において、死は「迷いの世界」から「悟りの世界(浄土)」へ至るプロセスです。お寺は、故人の冥福を祈り、ご先祖様の供養を行う場所そのものです。
したがって、ご家族を亡くされた「忌中」や「喪中」に新年を迎えた場合、神社への参拝は控えるべきとされる期間がありますが、お寺(菩提寺や信仰するお寺)へお参りし、仏様やご先祖様に故人の冥福と新年の平穏を祈ることは、むしろ非常に理にかなった、尊い行いと言えます。
ただし、喪中はお祝い事(慶事)を控える期間です。お祭り気分ではなく、あくまで静かに故人を偲び、新年の祈りを捧げるという心構えでお参りするのが良いでしょう。
まとめ:神社でもお寺でもOK!大切なのは感謝と祈りの心

「初詣でお寺に行くのはおかしい?」という素朴な疑問から、神道と仏教の歴史的な関係、そしてお寺ならではの参拝マナーまで、詳しく解説してきました。
この記事でお伝えしたかった重要なポイントを、最後にもう一度まとめます。
- 「初詣でお寺に行くこと」は、全く「おかしく」ありません。むしろ、神仏習合の歴史を持つ日本にとっては非常に伝統的で自然な行いです。
- 川崎大師や成田山新勝寺など、初詣の参拝者数で日本トップクラスを誇るのは「お寺」であり、この事実が何よりの証拠です。
- 私たちが「お寺はおかしいかも?」と感じてしまうのは、「神社=慶事(お祝い事)」「お寺=弔事(お悔やみ事)」という明治時代の「神仏分離令」以降に定着した役割イメージに過ぎません。
- 神社(神様)とお寺(仏様)では、ご利益の傾向が異なります。地元の神社に感謝を伝えたり、厄除けや病気平癒など個人の切実な願いを仏様に祈願したりと、目的に合わせて選ぶことができます。
- 最も注意すべきは「参拝マナー」の違いです。お寺では絶対に「柏手(かしわで)」を打たず、静かに「合掌(がっしょう)」して拝礼してください。
2026年の初詣、あなたは神社(神様)とお寺(仏様)、どちらにご挨拶に行きますか?
地元の氏神様に「旧年中はお守りいただき、ありがとうございました」と感謝を伝えるのも、素晴らしい初詣です。
「今年は厄年だから、厄除け大師様(お寺)にしっかりお祓いをお願いしよう」と決めてお寺に参拝するのも、力強い新年のスタートです。
大切なのは、参拝先が神社かお寺か、ということよりも、あなたがどのような思いで手を合わせるか、ということです。
神様や仏様は、場所や形式の違いを超えて、あなたの真摯な「感謝」と「祈り」の心を必ず受け止めてくださいます。正しいマナーを心に留めつつ、ご自身の心に従って参拝先を選び、清々しい気持ちで2026年の一歩を踏み出してください。
